『理』(ことわり)の算命学・陰陽五行説的な解説(1)

 ここでは、算命学や陰陽五行説を学ぶ方々を対象に、『理』(ことわり)の歌詞について、詳細な解説をしてみようと思います。
 

 算命学も、陰陽五行説も、共に方向理論である訳ですが、しかし、方向理論がどういうものかを学ぶ機会は殆ど無いのではないかと思います。それ故に、『理』の完成記念として、一部、且つ、簡単にではありますが、(本気で語り出すと、大変な事になります・・・。)語ってみようと思います。相当マニアックなものとなりますが、又、1万字を超える長い文章となりますが、あくまでも、算命学や陰陽五行説を学ぶ方向けの記事という事でご容赦下さい。
 

 尚、さる命学教室で学ぶ方は、すぐに理解出来ると思いますが、算命学の基礎理論(陰陽説・五行説・暦術思考)を学んだ事がない方には、少々難解かも知れません。裏返せば、ここに記された解説を読んで、何を言っているのか分からない、とか、その言葉はどういう意味?という事であれば、算命学の基礎が出来ていない(たとえ何年学んでいても)という事です。
 

 では、まず『理』の曲を聴いて下さい。
 そして、次の解説を読んだ後に、もう一回聴いて下さい。
 きっと、色々な事が感じられる様になっているのではないかと思います。
 


 

ここから本編のスタートです。

 『理』の構成は、「1~5番+サビ」という様に、大きく二部構成になっていて、はじめの1~5番では五行説を、サビでは陰陽説を語っています。
 

五徳

 1~5番の部分は、算命学の基となっている五行説の内、「五徳」がテーマです。
 

 算命学において、五徳とは、人間の所有する五つの本能(守備、伝達、引力、攻撃、習得)を、有形・現実の世界において、どの様に表せば物事が上手くいくのかを説いたもので、具体的には、「仁・礼・信・義・智」の五つ(順不同)をいいます。
 

◆◇◆
 

 因みに、「仁、礼、信、義、智」の五つは、儒教では、「五常」と呼ばれ、人の守るべき道徳を説いたものと考えられています。又、聖徳太子が制定したとされる日本初(603年)の冠位制度である「冠位十二階」はここから来ていて、道家でいう「道」に至った人物が発する気「徳」を最初に加え、更に、陰陽説で二区分し、全部で十二の位階となっています。
 

大徳・小徳(冠の色は紫)
大仁・小仁(冠の色は青)
大礼・小礼(冠の色は赤)
大信・小信(冠の色は黄)
大義・小義(冠の色は白)
大智・小智(冠の色は黒)


 

何故「義」から始まるのか

 『理』の詩では、木火土金水の順ではなく、「義」(西方金性)から始まっています。これは何故かというと、信徳は、他の四徳(仁徳・礼徳・義徳・智徳)と異なり、「間接気」であるからです。こう言えば、さる命学教室の生徒さんは分かるでしょうが、一般には不親切でしょうから、敢えて解説を付しておきます。
 

 仁・礼・義・智の四つの徳は、自ら「直接」養う事が出来るし、教育によって高める事が出来ます。即ち、直接鍛える事も、他人の助力を得る事も出来るという事です。しかし、信徳はそうはいきません。
 

 信徳は、他の四徳がバランス良く、且つ、相当程度に燃焼された後に初めて生まれる気であり、他人の助力を得る事は出来ず、自分一人でそれを体現しなければならない世界です。即ち、直接的には稼働させる事が出来ない、或いは、直接いじる事が出来ない徳(=間接気)という事です。
 

 分かり易くいえば、正しい行いをし、知性にあふれ、人に対して奉仕し、礼儀礼節に則った振る舞いをする様な人物になって、初めて、人から信頼される(人の心を引き付ける)のだという事です。そして、終着点が「信」であるならば、当然、出発点はそこから一番遠い所である「義」となる訳です(金生水→水生木→木生火→火生土)。
 

 では、ここからは細かく見ていきます。


 

義は物事の道理
正しい事を貫く勇気
時に人を傷つけ
時に人を助ける
膠着した世の中を
前進させる大きな力
人の歩みは儘ならぬもの
何も懼れず誇りを胸に
自分の道を歩んで行こう 


 義は、西方金性の気、即ち、攻撃本能が発現したものであるから、物事の道理、正しい事を貫く姿(=勇気)に繋がっていきます。
 

 ここで言う「正しい事」とは、厳密には、「自然の法則に順った事」を言うのですが、一般的には、それぞれが信じる「正義」という意味合いで用いられる事が多い様に思います。よく時代劇等で、「義によって助太刀致す。」という台詞を聞きますが、この「義」は、その意味で使われています。
 

 又、論語には、「義を見てせざるは勇無き也」(意訳:正しい事と知りながらそれを行わないのは、勇気が無いという事だ。)という言葉がありますが、これも同じ意味で使われています。
 

 算命学でいう所の「真の義」は、絶対的な正義、即ち、自然の法則=宇宙の真理であるから、時代と社会を超えて常に当て嵌まるもののみ(普遍的なもの)を指します。
 

 しかし、一般的にいう所の「正義」は、相対的な正義で、先程例示した様に、実際には、この意味で用いられる事の方が多いと言えます。すると、正義と正義(何れも相対的な)がぶつかれば、そこに生まれるのは闘争の世界、即ち、戦争という事になる訳です。
 

 この様に、西方(ここでは、義の世界。以下、同じ。)は攻撃本能の場所、闘争の場所であるから、当然、人を傷つけもするのですが、一方で、西方は補佐役の場所でもあるから、それによって助けられる人もいる訳です。
 

攻撃とは

 ところで、算命学において、攻撃とは「動」の象徴です。即ち、自ら体を動かすとか、物事を前に進めるとか、常にめまぐるしく状況が変化するという様な状態は、全て攻撃の世界であり、必ずしも、闘争、何かをやっつけるばかりが「攻撃」ではありません。例えば、家族全員でスポーツをする様な一家は、算命学的な分類上は、攻撃的な一家という事になります。
 

勇者は懼れず

 最後に、西方金性には「勇気」という意味合いもあります。そして、勇気のある者=正しい事を貫こうとする者は、何事をも懼れる事がありません。因みに、論語にも、「勇者は懼れず」という言葉があります。
 

 そして、正しい事を貫く者、王の補佐をする者(即ち、西方の座気)は、それなりの地位・名誉を背景としてこそ、真に実力を発揮する事が出来るのであり、それ故に、西方には、自尊心、プライド、矜恃、誇りという意味合いが付されているのです。
 

 

算命学は「老子」の思想

 さて、「自分の道を歩んで行こう」という部分ですが、これは、前段(五徳の部)の1番(義徳)・2番(智徳)・3番(仁徳)・4番(礼徳)・5番(信徳)に共通するフレーズです。では、ここで何故「道」という単語が使われているかというと、それは、算命学が老子(道家)の思想の流れを汲んでいるから(老子と言えば「道」(タオ))です。
 

 と言っても、『老子』を初め、淮南子等、古代の道家の文献に「算命学」という名称は出てこないので、本当の事は分かりません。算命学の開祖は鬼谷子(古代中国の縦横家)だなどと言う人もいますが、これらは全て眉唾です。即ち、エビデンス(証拠)がなく、証明不可能(ある意味、言った者勝ち)という事です。
 

 しかし、算命学を学ぶと、その根底にある思想に触れる訳ですが、そこにある物事の捉え方のパターン、思考法、脈絡等は、老子(道家)の思想と重なる部分が非常に多く、それ故に、確実な証拠はありませんが、「算命学の思想の源流は老子の思想である。」と言っても構わないのではないかと、個人的には思っています。
 

 故に、算命学を学び始めた方は、又、算命学を学んでいるけれど、まだ老子を読んだ事のない方は、一度読まれる事をお勧めします。きっと、算命学の思想を理解する一助となるでしょう。
 

 そもそも、算命学は、思想(哲学とも言える)であって、事実でも、科学でも、常識でもありません。なので、もしそれらがかち合うような事があれば、必ず、事実・科学・常識の方を選んで下さい。そしてそれは、自分の身を守る事に繋がります。
 

 では、算命学は役に立たないかというと、決して、そんな事はありません。思想は、思想である(事実ではない)からこそ、有益な使い方があるのです。ここで具体的な事を語り出すときりがないので、色々と学びたいという人は、是非、さる命学教室の門を敲いて下さい。

 

智は尽きぬ好奇心
新たなものを生み出す土壌
時に過去から学び
時に未来に学ぶ
それ迄の世に変革を
もたらす為の大きな力
人の歩みは儘ならぬもの
惑う事なく知恵を養い
自分の道を歩んで行こう


 智は、北方水性の気、即ち、習得の本能が発現したものであるから、知りたいし、学びたい訳で、それは、飽くなき好奇心、そして、それに突き動かされて何事かを学ぶという行為に繋がっていきます。
 

 人は、知る事によって、そこから何かを学び取り、何かを感じ、応用し、既存の事物を変えていったり、今迄にない新たな事物を創造したりします。
 

 これは、創造と破壊であり、スクラップ・アンド・ビルド(和製英語で、老朽化、或いは、時代に合わなくなった生産設備等を廃し、効率よく価値を生み出す新たな生産設備等に交換する事を指す。)と言えるのですが、この様な状態を生み出す根源は、「知りたい」という想念(習得の本能)なのです。
 

静の学び・動の学び

 ところで、物事を学ぶ際に、その学ぶべきもの(答え)が既に存在するものであれば、師や書物から学ぶ事が出来ます。算命学では、この様な学びを「静の学び」(過去から学ぶ)と定義しています。
 

 一方、何かを知りたいと思ったとして、しかし、その学ぶべきもの(答え)がその段階でこの世界に存在しないという事もあります。その場合、その学びが得られるであろう場所に移動し、自ら体験しながら、その学びを得ていく事にならざるを得ず、算命学では、この様な学びを「動の学び」(未来から学ぶ)と定義しています。
 

 そして、過去・未来(静・動)のどちらから学ぶにせよ、そこで得たものは確実に、「改革」や「創造」(世の中の変革)に繋がっていくのです。
 

知者は惑わず

 最後に、北方水性には、知恵、知性、理性という意味合いもあります。そして、知恵・知性・理性のある者は、正しい判断をする事が出来るから、惑う(混乱する、自分を見失う)事がありません。因みに、論語にも、「知者は惑わず」という言葉があります。
 

 さて、ちょうどここで間奏が入るので、一旦休憩して、後は次回に譲りましょう。
 

(隊長)
 

『理』(ことわり)の算命学・陰陽五行説的な解説(1)

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